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第12話 乙女のため息


執筆者:そうな


 ここに一つの疑問がある。
目の前で男、女、そして子供が仲良くしていれば、それは親子と「認識」するのだろうか。
世の中は、《定型》に納まる事ばかりではなく、その大半が自分の目と頭で「判断」しなければならない事ばかり。
そして、《定型》がもたらす《思い込み》とは、なんて人の思考を狂わせるものかと……。

 今までどこに居たのか、忘れていた虫の声が、チラホラ。
やっと、夏の感覚を思い出してきた、今日この頃です。
この時期の時間の流れは早い。
長かったはずなのに、あっという間に過ぎ去ってしまった黄金週間。
沢山あったはずなのに、あっという間に消え去ってしまった財布の中身。
まぁ、充実した時間を買ったと思えば、なんのそのですね。むしろ、そのお陰というべきか。
何十もの野口英世が私から去っていったが、特に悔いは無し。

皆様が一人一人、どのような時間を過ごしていたのか、とても興味がある今日この頃。
きっと、小説の比ではないような、ほのぼのするドラマがあるのでしょうね。
さて、今回は、そんなゴールデンウィーク中のお話しです。

 この休みの中頃、私は田舎の法事に行ってきた。
祖父の三回忌だ。
「あぁ、もう三回忌なんだなぁ」と思うと、定番だが、月日が経つのは早いもので……三年なんかあっという間だな、としみじみ思ってしまう。
だが、その直後に、
「あれ?二回忌ってしたっけな?」なんて疑問が頭によぎってくるから、何だか危ないような気がしてくる……。
ともかく、時間が過ぎるのはとても早く……だからこそ、普段からしっかりと目を開いていたいな、という気持ちになってくるのだった。
そうだ、私の目よ、開け。
(この事だが、一周忌の後は三回忌になり、必然的に二回忌というものは存在しなくなるそうだ。うーむ・・・・・・不思議な決まり事である)

 田舎の家で、久々に家族全員と合流し、法事の行われる寺に行った。
寺の待合室で親戚と挨拶を交わしながら、喪主の娘として、もてなす。
お菓子やお茶を配っていると、ふと、見慣れない小さな女の子が一人、年配の親戚と来ていた。
こんな、大人ばっかりの法事に参加するなんて、偉いな……退屈じゃないかな……そう思い、自然に気にかけるようになっていた。
その子は、親戚のおじさん、おばさんとおもちゃであそんでいた……そこにお茶を運んでいき、話しをしてみると、どうも恥ずかしがってしまうのか、人見知りなのか、そっぽを向いてしまう。
私はその様子を見て、
「可愛いですね」と話しかけてみた。
すると、

親戚おじ「この子はね、英語習ってるんだよ」

急に英語の話しになった。
挨拶より何より英語の話しをしたいのだと思い、私もそれについて話しを展開させた。

私「ほぉ〜、英語を……じゃあ、簡単な会話とか出来たりするんですかね……」

親戚おじ「いやいや、先生がね、外国の人なんだよ」

私「そうなんですか。それじゃぁ、発音とかいいでしょうね」

……それからは、その子の英語教育の環境について、何分か話しを聞いていた。
そう、それは、英語教育や環境以外の何ものでもなく、それからも特に英会話の内容に発展もせず、成績の話しでもなく、ただひたすらに環境の話しだった。
例えるなら、飴をあげると言ったら、製造会社の話しをされたというくらいに、不思議な時間だった。
よく分からないが、きっと、可愛いこの子の自慢をしたかったのだろうな……そう思う。
そう、私の親戚には、ちょっと・・・・・・いや、かなり珍しい人が多い。
毎年、法事に来る度にそう思うのだから、多分、そうなのである。

(図1:本堂)


 さて、舞台は法事が行われる本堂に移る。
私は喪主の娘なので、一番前の隅の座布団に座っていた。
すると、私の右肩の後ろに、親戚に連れられた小さな女の子は、ちょこんと座った。
その姿は何とも可愛らしいこと。今から何をするのか、よく分かっていないような表情で、本堂の中をキョロキョロと見回していた。
私は、その様子を見て、「あぁ、退屈しないかな・・・・・・急に歌いだしたりしないかな」と、少し心配していた。しかし、その子は、始まる前から落ち着いた感じを醸し出していたので、暫くすると私の心配も消えていた。

 さて、お坊さんがシナシナと入ってきた。
どうやら始まるらしい。
みんなが座布団に座り直す音がする。
釣られて、私も座り直してみた。
お坊さんが、二言、三言話をしてくれる。
雑談と雑念の無くなった辺りは、静寂と少しの虫の音に包まれる。
たまに鳴く、鶯の声が良い。

鳥「ホォ〜・・・・・・ホケキョ!」

あぁ・・・・・・何て贅沢な時間だろう・・・・・・。
しかしこの鶯、ちょっと溜めて鳴くのがクセなのだろうか・・・・・・。
この後も、このような鳴き方で、法事に彩を添えてくれていた。

お坊さんの小話が終わり、いよいよ読経の時間がきた。読むぞ読むぞ。
そして、今回もお坊さんは言ってくれた。

お坊さん「あ、どうぞ、皆様、足を楽になさってください」

ありがとうございます、ありがとうございます。
その一言で、私たちは救われます。

さて、読経も開始され、少し崩した足も痺れてきた頃、後ろでため息が聞こえてきた。
どうやら、小さい女の子のため息だったようだ。
気になってチラっと見てみると、どうやら、足をモゾモゾさせているようだった。

《ッフゥ〜・・・・・・モゾモゾ、ッフゥ〜・・・・・・モゾモゾ》

「足が痛いんだな・・・・・・痺れたんだな・・・・・・」とは思ったが、どうしてため息を吐くのか今一分からなかった。
もしや、
《ため息を吐くと、痺れが緩和される!?》
などと仮説をたて、ため息を吐く音を気づかれないように私もやってみた。
《・・・・・・ッフゥ〜・・・・・・ッフゥ〜・・・・・・》
すると!!!
・・・・・・呼吸が整っただけで何も変わらなかったので、やめた。
我ながら、珍妙な事をしてしまった。

 暫くして、本堂のドアがガラガラと開く音が聞こえた。
気になったので、ちょっと目をやると、親戚のおばさん一人とあの子がいない。
法事の最中だったのでちょっと気になりもしたが、

「なるほど、やっぱりそうだよね。流石に、疲れるよね」

と、許してみる。
これは、小さい子には、確かに酷である。
私の幼い頃も、法事関係か何かで、周りが大人だらけの中、時間が止まって進まないような、何とも息の詰まる感覚を覚えたことがあった。
《みんなが何をしているのか分からず、自分もただ居るだけ》のその環境は、とても息苦しく、本当に窒息してしまうのではないか、と思うほどであった。
だから、息抜きに外に出させたおばさんの選択は、いい選択だったと思う。
逆に、泣いてしまったり、だだをこねてしまったり、歌を歌いだしてしまったりしたら、大変だからな。・・・・・・まぁ、読経中に歌を歌い出された空間というのも、少し興味があるが・・・・・・。

 そして、読経も終わり、お坊さんが歌のようなものを詠唱している時、またドアの開く音がした。

「あの子が帰ってきたのか・・・・・・また再開するなんて、偉いなぁ」

と、思っていたら、なんだか一番前の座布団にサッと座りだした。

「あ、そこは亡くなった人の家族とかが座る席でしょー」

とか何とか思っていたら、それは、遅刻をしてソソクサと入ってきた親戚だった・・・・・・。
(聞けば、この親戚を待つために開始時間を30分ズラしたのだが、結局間に合わなかったらしい)
うん・・・・・・色んな親戚が居る・・・・・・。

 その後、すぐに女の子とおばさんは戻ってきて、みんなで無事に焼香も済ませた。
そして、墓に線香をあげに行き、それぞれが食事会の行われる店へ移動した。


 私たちは、片付けもあり最後に寺を後にしたので、店に着いた時には既にみんなが揃っている状態だった。
さて、いよいよ法事の締めである。
ここで、色々な事を語ったりして、またね・・・・・・という事なのだろうか。

私は、空いている席に私物を置き、参加者に何を飲むかを聞きながら、栓のしてあるビンを開けていった。
辺りを見回すと、あの小さな女の子は、おじさんおばさんに挟まれて座っていた。
私は、少女の傍らに座り、
「何が飲みたいのかな?」
と聞こうと思ったが、ビールとウーロン茶、オレンジジュースしかないので、
「オレンジジュースでいいかな?」
と聞いた。
「ビールください」
とかいう洒落もわずかに期待していたが、そんなのは当たり前のようになかった。
少女にはオレンジジュース、おじさんにはウーロン茶を注ぎ、私は自分の席へと戻った。

 そして、父の短い挨拶があり、いよいよ食事が開始された。
それぞれが、話を始めたり、好きなものから食べたりし始める。
丁度、私の周りは、普段滅多に会わない人たちが集まったせいか、みんな「・・・・・・。」という風に顔をチラチラ見ながら、食べ始めた。
私は、何かを話そうと思ったが、年差もありすぎて、何を話していいのか分からず、もどかしい気持ちで醤油にワサビをといていた。
正面に座っていたおじさんが、よくTVに出ている弁護士に似ていたので、少し興味を持って見ていたのだが、酢の物を思いっきりかきこんだ後、

「すっぺぇ〜!」

と呟いて、渋い顔をしていたのが、実に印象的だった。
当たり前の事に、素直に反応できる大人は、気持ちの良いものだな・・・・・・。

 一通り食べ、そろそろお腹も落ち着いてきた頃、あの女の子が気になりだした。
チラリと見てみると、ちゃんとお行儀よく追加のお子様ランチを食べている。(この子のみ、当日急に来たらしい)
よく見れば、おじさんの手には、立派なカメラがあった。
向かいの席の親戚に、その子との写真を撮ってもらっているようだった。
本当に、孫と仲がいいんだな・・・・・・。
そう思いながら、私は三回忌の主役である祖父に、想いを馳せていた。
私の幼い頃も、あんな感じであったのだろうか・・・・・・と。
すると、カメラを構えている親戚は言った。

「いいわねぇ〜、もう本当の親子ね」

何!?本当の親子・・・・・・?
つまり・・・・・・あの祖父と孫みたいな関係に見えた人たちは、父と子だったのか!
なんと・・・・・・世界は広いものだ・・・・・・。
私は、しみじみとその家族を見ていた。
色々大変だろうな・・・・・・でも、素敵な家族関係だな・・・・・・と。
本当に、世の中には色んな人が、色んな思いをして生きている・・・・・・うん、そう思うと、なぜだか少し、勇気が出てくる気がする・・・・・・。

 さて、食事も終盤になり、帰り始める人もチラホラ見えてきた。
私は、急いで袋に引き出物を詰め、親に渡していく。それを親が、挨拶と共に一人一人の参列者に渡していく。
このリレー作業は、なかなか面白いと、個人的に思っている。
最後に残ったのは、あの女の子の家族であった。
母とその親戚が話しをしている。
その間、女の子は私をチラチラ見て、手を振ってくれたりしていたので、私はデレデレしながら振り返したりしていた。
そういえば、この子はなんていう名前なのだろうな。

そして、みんなが無事に帰ったあと、いよいよ家族だけになって、プチお疲れ様をした。いや、ただ、栓を開けただけのビールが勿体無いので、頑張って処理していただけだが。5本も開いていて・・・・・・内二本は、私が犯人であった・・・・・・。
私は、飲みながら母に話しかけた。

私「開けたけど、みんなあんまりお酒を飲まなかったね〜」

母「そうね、結構車で来てる人多かったから」

私「そういえば、今日のあの女の子、可愛かったね」

母「そうね。いきなり来たからビックリしちゃったけど、何とか無事にお子様ランチも用意できて良かったわ」

私「そういえば、あの子、なんていう名前なんだろう???」

母「んー・・・・・・何だったかしら・・・・・・どこかの子供を、預かってきたみたいなのよね」

え?今、何と??

母「どうも、あの家庭は、同じ宗教を信仰している人の子供を預かるっていう慈善事業をしているらしいわよ、さっき話してくれたの」

・・・・・・親子でない・・・・・・!?
孫でもない・・・・・・!?
他人!?
まず、三回忌という法事の場に、親族以外が来ていた事に、私は驚いていた。
ま、まぁ・・・・・・いい・・・・・・けど・・・・・。

すると、帰ったはずの、その女の子のおじさんが部屋に戻ってきた。
私の方に向かってくる。
どうしたのかと思っていると、折りたたんだ新聞を差し出してきた。
私は、咄嗟に受け取っていた。
おじさんは言う。

「これね、ここんところにね、私たちの偉い先生のね、ありがたいお言葉が書いてあるの。人生の教養になるからね、読んでみて」

そして、おじさんは爽やかな笑顔を残し、去って行った。
私は、新聞紙を片手に、思い出した。
あ、あの人、確か、一ヶ月前に家に電話をかけてきた人だ・・・・・・その先生について四十分ほど語って、その新聞をとりませんかって・・・・・・。この親戚だったのか・・・・・・。

本当、個性的な親戚が多いと思った。

 そんなこんなで、その事も笑い話になり、帰り道の車の中で、家族と話しをしていた。
本堂での足の痺れの話しをしていたら、父は言った。

父「やっぱり、お坊さんは《シワがよるほどブカブカの足袋》を履いててズルいなぁ〜」

続いて母も言う。

母「そうよね。足袋は着物を着る時の正式な衣服だから、あんなにブカブカなのはおかしいわ」

そうか・・・・・・言われてみればそうだな、確かにズルい!そして、おかしい!
いくら何でも、あれじゃブカブカすぎるじゃないか!
そうだ。
いっその事、キッツキツの足袋を履いて、読経をすればいい。
そして、その最中に

「っう……」

とか言って、渋い顔をしながら痺れて……パタリと倒れ……−

ダメだ、ダメだ。
これではわけが分からない。
しかも、普通の人より痺れにくい格好をしているお坊さんでは、なお更、弱いんじゃないかと心配だ。
そうだ、お坊さんはこれでいい。
ブカブカの足袋のまま、木魚をポクポク叩き、痺れに悶えている人を尻目に、そのまま涼しい顔で説法を説く。
それが、お坊さんマジック。
なんてな。

 とりあえず、正座は大体のものには良く、とてもキチンとした姿勢なのだが、無理をしてまでやるものではないな、と私は思った。
勿論、その必要がある場合もあると思うが、法事では、少し崩して楽な姿勢を心がけるのも、また良いのだな、と思った。
なぜなら、読経を聞いていて、初めてその経文の内容を知ったからだ。
あれは、《自分に対して》読まれていたものであった。
自分に対する戒めや生き方、問いかけの内容である。
もし、いつも通りに足の痺れと時間を気にしていたなら、それには気がつけなかった。
そう考えると、「読経に正座」というのは、本来、それを《謹んで聞くための心》だったのかもしれない。
大切なのは姿勢を保つ事ではなく、「聞く姿勢」を作ること……という。

 さて、今回の法事では、色々な事が学べたと思う。
女の子とおじさんが他人だった事、正座の形と経文の内容。
どちらも、《定型》を考えすぎる事からの、《私の思い込み》であった。
《定型》とは便利だが、時として人の思考を単純なものにしてしまうようである。
《本質》を見極める事は難しいが、これからも、できるだけそういう眼を身につけていきたい。
しかし・・・・・・女の子とおじさん・・・・・・あれは無理だぁ〜。