日本正座協会


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第8話 書道のすヽめ


執筆者:そうな


 「心を無にする」とは、何も考えないことだと思っていた。
布団の中から天井を眺めていた私は、そう思いながら、無に心を馳せていた。
でも、実際は違った。
人は、生きている限り、ただ何も考えない事なんて、きっとできない。
いや、それでいいのかもしれない。


 私が小学生の時にこんな事があった。
場所は教室、私は前から三番目の席だった。
次の科目は書道の時間で、生徒は先生が来る前にセカセカと水を用意したり、半紙を用意したりと忙しくやっていた。
殆どの子は、墨汁液を持参していたが、中には自分で墨から磨りたがる人がいる。私もそうだった。
書道セットの中にその墨が、「ドーゾワタシヲ磨ッテクダサイ」と言わんばかりにスズリの横に置いてあったのだから、磨りたくなってもしょうがない。
誰かがやりだすと、自分もやってみたくなるのが人間の性だろうか。
私も水をスポイトに取ってきて、スズリに入れた。
いざ磨ろうとした時に、誰かが静かに言った。

「心を無にして磨るんだぜ」

おぉ・・・・・・彼は、全てを卓越した者のように言う。
今にしてみれば、「っはん」と一笑したくなるようなキメ台詞だが、あの頃は、何が何でも心を無にして磨りたくてしょうがなかった。

透明な水に墨をつける→磨る→磨る→磨る。

しかし、人間何も考えないことほど恐ろしい事はない。
考えなくちゃだめだ。
いや、考えるまでもいかなくとも、周りに注意くらいは払わなければいけない。
「無にしよう、無にしよう」と頑張っていた私は、目を開けてある事に気がついた。

「前の人の背中が、ところどころ黒くなっている」

なぜなら、墨だからだ。
いや、そんな事を言っている場合ではない。 私は心が無になった気がした。・・・・・・というワケでもなく、ただ思考が停止した。
無にする事ばかりを考えて、墨を磨る力を加減していなかったのだ。
ん?
私は今、なんと書いた・・・・・・?
無にする事ばかりを考えて・・・・・・《考えて》!
やはりそうだ。
人の頭は、常に無になることは出来ない。
真っ白になる事ができても、考えを一時的に止める事ができても、行動し生きている時間を自分から無にする事など、きっとできない。
人間が力んで無にしようとすると、更に考えてしまうのだ。
考えている状態は、いわゆる「無」ではない気がする。

 ちなみに、前の席に座っていたその級友は、自分も袖に飛ばしていたらしく、全く問題ないと笑ってくれた。
なんて良い友人。なんて大らかな心。
ごめんね、墨を飛ばした防災頭巾、椅子、背中!
私もあの子のように大らかな、そして良い笑顔になりたいものだ。・・・・・・その割には記憶の中の笑顔がぼやけていて、上手く思い出せないが。


 さて、そんなこんなで書道をしてみた。
何かを書きたいわけではないが、いわゆる、《無》の状態で書道をしたいのだ。
そうと決まれば早速用意をする・・・・・・。
用意をしている内に何だかワクワクしてきた。

【セットオン!】


そして、墨を磨る・・・・・・磨る・・・・・・。
磨っている内に、何か新しい事に挑戦している気がしてきた。幼い頃、学校の授業や夏休みの宿題で、嫌というほど書道をしたにも関わらず、である。
幼い頃と同じ書道であっても、《目的が違えば、また別物》なのだろうか。この新鮮さは、ただ単に懐かしがっているだけではない気がしている。

 まぁ、それはいい。
そんな懐かしい思い出に心を馳せたりしている内に、何だか墨汁にキラキラしたものが見えてきた。これぞ幼い頃にどこに消えるのか不思議だった、墨の彫りを埋めている金ぱくである。
大人になってこうして見てみると、謎は案外単純だったりする・・・・・・。

漆黒の中で光る金ぱくは綺麗だな・・・・・・塗り物のようだな・・・・・・なんて思っていたら、

【あ、いつも磨っていた方向と逆側から磨ってしまった】


結局、全部使う事を考えれば、どちら側から磨っても同じかもしれない。
いや、しかし、次のように考えてみると分かりやすい。

「先の丸くなった鉛筆を削ろうとしたら、間違えて反対側を削ってしまった」

機能性は大して変わらないが、気持ちの上でこれはちょっとしたガッカリかもしれない。
今更だが、私はおっちょこちょいである。

 それはそうと、気づけば雑念ばかりではないか。
これでは「無」など程遠い。
だが、《雑念ばかりの書》というのも面白い響きである。

 それから私は、「この金ぱくは何の意味があるのだろう」「書いてる時に金ぱくが悪さをして変な線ができたらどうするんだろう」などという雑念を払い、墨を磨り続けた。
磨っている間は、実に不思議だった。
普段、何の音もしていない静かな場所に居ても、ちょっとした雑音やキーンという音が気になるのに、今だけは何も気にならなかった。
磨る事に集中している、というよりは、頭と体に一本筋が通っているような、研ぎ澄まされたような感覚である。


 さて、墨を磨る姿勢だが、あなたが墨を磨る時はどうしているだろうか。
今、私は椅子に座って磨っている。
私の頭の中では、書道は日本のもので、正座で行うのが一番だと思っていた。
しかし、よくよく考えてみると、元々書道とは、中国から入ってきたもの。
だとすると、椅子に座って書くのが本来の書き方だろうか。
いや、本来も何も、日本に入ってきた時点で日本風にアレンジされているのだ。どんな書き方だって良い。
ただ、私は、やはりここは正座を推奨する。
なぜなら、私は墨磨りをしていて思ったからだ。

「あ、正座だと磨りやすい」

書道の教科書などにも、椅子に座ったままでの正しい磨り方は載っているし、足とお尻に重心をかけて踏ん張る事で、安定して綺麗に書きやすく・磨りやすくなるという人もいる。
勿論、否定はしない。
否定はしないが、そりゃあ、二箇所で踏ん張れば安定はするだろう。
おっと、そんな事はどうでもいい。
私が、磨りやすいと思った理由、それは自身で確かめて欲しい。
どうするのかというと、《エア墨磨り》である。
「なんぞそれ?」と思われるかもしれない。
これは、実際は手元に墨が無いが、あるように想像して動作をしてみる事である。
つまり、《エアギター》もしくは、《エアあやや》のようなものである。
まずは、椅子に座った姿勢で磨ってみて欲しい。
次に、床に正座をした姿勢で磨ってみて欲しい。
「ん?」と思われただろうか。
私が何を主張したいのかというと、当たり前だが、椅子には机がついている。
そして、当然、墨は机の上で磨る。
そこがポイント。私は、どうもそれが苦手なのだ。
だって、机の上で磨ると、腕が直角、又は斜め下に動くじゃないか。
それでも、「何を言う」と思った方は、これを想像して欲しい。
消しゴムを思い出して欲しい。そして、余裕があれば《エア消しゴム》である。
机の上で、ケシケシと細かく腕を動かすより、広い床の上で、腕を自由に斜め上に引き上げる方が、消しやすくはないだろうか。
これはかなり個人的な意見かもしれないが、私はそう思った。

 そして、極めつけは、和服に習字。
これはかなり、日本人らしさを引き立てるだろう。
女性ならば、その姿は華の如く!
凛とした美しさの中にも、たおやかな雰囲気がかもし出されるようである。
男性ならば、その姿はまさに威厳そのもの!
力強いその指で細い筆を華麗に操る姿は、どこか清らかで紳士なオーラが出ていないだろうか。
つまるところ、どちらも釘付けである。


 ちなみに、もっと他のやり方は無いかと、立って地面のスズリを磨ってみたが、ダメであった。どうにも細かい作業を離れた場所からするには、難しいらしい。
更に、ダメ元で横になって磨ってみたが、これはもっとダメだった。磨る度にバランスが崩れるし、何より眠くなるのだった。あれはやる気をそぐ姿勢かもしれない。
少し、涅槃(ねはん)を想像して磨ってみたのだが・・・・・・恐るべし、横寝。



 それらを踏まえて、もう一度「書道」というものを考えてみると、私には、やはり畳の部屋で正座して書くスタイルが一番あっているように思える。
やはり、その時代に作られた文化は、その時代の生活に合ったものである。
丁度、日本が習字に合った暮らしをしていたから、その文化が根付いたのだろう。


 さて、そんなこんなで、磨りやすい磨りやすいと言っていた和室で本格的に書いてみた私だが、特にこれといって変わった事は無く、やはり机より書きやすいなぁ、という事実だけだったので、画像は撮らないでおく。
本当は撮りたかった。だが、撮れなかった。
なぜなら、いくら場所を変えても、いくら書きやすくても、元々の字の上手さは練習あるのみだという事を思い知ったからであった。
つまり、久しぶりに書いた書は、見られたモノではなかったワケである。
まぁ、それとは別に、やはり書きやすさは大事で、姿勢も大事である事は確認できたので万事良しとしよう。
表面だけに限らず、何かをする時の《姿勢》は、大切だ。
それによって行動が変わり、結果に影響すると思う。


 話しは最初に戻るが、色々考え、そして実際に書道をしてみて思った事がある。
やはり、人は《心を空っぽにすることは出来ない》。いや、もしかしたら、空っぽな状態を心とは呼ばないかもしれない。
しかし、集中したり研ぎ澄ましたりすることは出来る。
悟りを開く、まではいかなくていいと思うが、心を研ぎ澄まして、《雑念などを受け付けない状態》こそが、ここでの「無にする」の意味になるのではないか、と思った。


 さて、ここに、長きに渡って親しまれている般若心経の写経がある。全て漢字で書かれている経文だ。



悩みで心がいっぱいの時、気分を変えたい時、精神を統一したい時などには、ただひたすらに、無の境地に心を馳せてみてはいかがだろうか。
世の中、「どうでもいい事」が目立って、気になって仕方ない。それを時には、重要な事と思い込んでしまうことも、しばしばある。

人間、たまには、心を無にした方が、良い考えがひらめくと思う。
雑念を払って、本当に大切な事を見つけてみよう。