掲載日:2008/06/17

やさしい正座入門学

第1話 正座とワタシ 「自発的正座ライフ」

著者そうな
イラスト金澤 暁夫

私は、初めて正座をした日を覚えていない。「正座」というものに関心がないワケではないのだが、これといってその行為を意識したことは無かったのである。だから、正座について考える事は一種の事件であった。「日常」という枠の中に組み込まれていた「無意識」が、突然腰をあげて気さくに歩き出したような気さえする。……そうだ。そうなのだ。今まで私は「無意識」に正座を行ってきたのだ。思えば、座ることも正座をすることも一緒くたにし、それほど区別をつけてこなかった気がする。これはいけない。何たる盲目だろう。「食べる」という行為の方法に、箸やスプーン、フォークや手づかみがあるように、「座る」という行為にも、またそのような方法があるのだ。その中の一つに、きっと「正座」がある、と、私は思う。


では、「正座」とは何か。いきなり何かと聞かれても、大概の人は答えられないだろう。そういう私自身も、「正座」について殆ど知識が無いので、納得のいくような説明をするのは難しい。今日の私のように、「正座」についてそんなに意識をしたことがある人の方が、少ないのではないかと思う。むしろ意識も何も、日本の伝統でありながら、「正座ぁ?」等とどこか敬遠されているような、無意識の内にマイナーな部類になってしまったのではないかとも思う。それは和室のある家が少なくなったのもそうかもしれないし、座るといえば椅子が定着しつつあるからかもしれない。

しかし、別に和室が無くても、椅子があっても、正座はできる。現に、私の家にはカーペットを敷いてある部屋がある。そこはリビングとして使っている洋風の部屋で椅子もある……が、私はそこで直にカーペットに足を伸ばした姿勢や、世に言う体育座りをしたりしている。……そうだ。和室じゃなくったっていいじゃないか。カーペットでもできるじゃないか。

だが私には何か、「正座」というものには言葉にできないような、何か重みのような、ただならぬ気配を感じるのだ。それは何だろう。それ以前に、何故、一般に「正座」は敬遠されたり、あまり意識されたりしないのだろう。一人では考えが凝り固まってしまうため、実際、知人に直接「正座」というものについて尋ねてみた。知人は、見るからに苦悩しながら、この質問に答えてくれた。
「え……何か、痺れるヤツだよね。座って……で、何か……すっごい痺れるんだよね」
そうなのだ。そうなのである。あの姿勢は時間が経つにつれて、痺れてくるのである。だが、あの姿勢を見れば、血流がスムーズにいかないということは見て取れるし、神経も折れ曲がるわけであるから、痺れるということも何となく想像がつく。そんなことより、私は、知人の発した「痺れるヤツ」の「ヤツ」の方が気になってしょうがない。何となく分かるのだが、ヤツに含まれる曖昧な表現の方が気になる。やっぱり敬遠だろうか……。

他に、歳の離れた博識そうな知人が、どう思うかに興味があり、聞いてみた。知人は、「何でも聞いてくれ」と、自信満々、スマイルと共に気前良く受けてくれた。
「日本の伝統の正座について、どう思いますかね」
「痺れる」
そうきたか。だが、もう分かっている。分かっているのだ、痺れることなど。もう一声欲しかったので、もう少し聞いてみることにした。
「他に……何かありますかねぇ」
「痺れて立てなくなる」
同じじゃないか。そりゃぁ、痺れれば立てなくもなるだろう。逆に、痺れているのにピンピンと立って歩いている方がびっくりではないのか。「正座」から立ち上がろうとし、顔を引きつらせたのも束の間、体操選手のようにピンと立ち、ズンズンと歩き出す人を私は見たことがない。仮に、そんな人がいて、質問をしてみたとしよう。
「君、よく痺れないな」
「痺れているとも。感覚なんて無いね。うん、全く無いね」
……そんな奇妙な会話になること請け合い。

他に四、五人程に、この質問をしてみたが、全て似たり寄ったりだった。だが全てに共通する言葉があった。やはり「痺れ」なのである。「正座」と言ったら「痺れ」というのは、切っても切り離せない答えなのか。一見何も無い。ただ「痺れる」という何も無い回答だったので、私は考えるのを止めてしまうところだった。

しかし、その「痺れ」にこそ注目すべき点があるのではないかと思った。学生であった者なら、誰しも経験したことがあるだろう。学芸会や鑑賞会、はたまた初めて見るような親戚が来た時など、ただ何となくこの姿勢をさせられる。しかし、それがいけない。何となく「させられる」というところにミソがあると思うのだ。

例えば、小学校の学芸会で、目の前で友達が頑張っているとしよう。鑑賞者はみんな、正座をすることを先生に義務付けられている。その発表の様子を見ている彼は、知っていた。友達が、今日という日まで汗水たらしながら練習していたのを。そして、彼は、そんな輝いている友達の姿を見ながら思うのだ。
「長いな」
おまえってヤツは、全く……。でも仕方が無い。なぜなら、今まさに彼の足は痺れているのだから。きっともう、限界に違いない。下手をすると泣き出すかもしれない。それはそれで、新しいドラマが始まりそうだが。

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では、それが「正座」ではなく、彼の好きな姿勢だったらどうだろう。彼はきっとこう思うだろう。
「あ、今のセリフは完璧だぜ。あいつ、よく頑張ってたよな」
きっと真剣に見入るに違いない。

遠い親戚が来ていたとしても同じことになるだろう。ちゃんと正座なさい、と言われてしぶしぶ正座をし、いよいよ足が痺れてきた、ちびっ子。そんな状況を知ってか知らぬでか、遠い親戚は容赦なく喋りかけてくる。
「太郎君も、大きくなったね」
「……」
「太郎君は、何が好きなのかな」
「……」
決して、彼は無口なのではない。問いが難しいわけでもない。ただ、指示された正座に、ひたすらに痺れて我慢しているのである。こんな我慢大会みたいな状況で、上手く思考が回るわけないじゃないか。きっと太郎君は、顔を親戚に向けはしたが、口半開きの何とも言えないような難しい顔をしていただろう。

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このように、「させられる」という命令ともつかぬ指示によって、
「正座=痺れる」
という、方程式が成り立ってしまったのではないかと、私は思う。


しかし、私は、それが「正座」の正しいあり方だとは思っていない。「じゃあ、どう思うのさ」と思うのが人の性。参考程度に聞いてもらいたい。私の思う正座とは、「させられる」ではなく、「する」正座なのだ。「何を言っているのだ、こいつは」と、思う人もいるかもしれない。もっと細かく言うと、「させられる」という「受け身」の形は、どうも、それと向かい合う行為にはつながらないように思える。だが、「する」という「自発」の形こそ、自分の中で目的意識がはっきりとし、その行為と向き合えるような気がするのだ。この志は、何も正座の世界だけではない。何事も、「受け身」より「自発」の行為である方が、きっと物事が上手くいくであろう。
「私は、したことはあっても、させられたことは無いよん」
という人も、勿論、居るだろう。その人は運がいい。今まさに、伸び伸びと正座ライフを楽しんでいる事だろう。多分。


「正座」とは奥が深い。一口に「正座」と言っても、様々な人の想いや経験、はたまた趣向があるのであろう。私も、思えば「正座」を特に意識していないだけで、この歳までずっと付き合ってきたのである。それが、得意だろうが苦手だろうが、これからも、きっとずっと正座をしていくだろう。だからこそ、「正座」についてこれからも考えていきたいと思う。そして私は今日も一人、陽の当たる窓辺で正座をし、この伝統を噛み締めるのだ。……そして言うだろう。「やはり、正座は痺れるなぁ」と。