掲載日:2008/06/29

やさしい正座入門学

第2話 正座は気から

著者そうな
イラスト金澤 暁夫

今まで私は、正座を座り方の種類の一つと思っていた。しかし最近、座り方の種類に「体育座り」や「あぐら」、はたまた「お姉さん座り」がある中、正座だけは何か違う気がしているのである。

では、一体何が違うのだろうか。
「大して違わないよ。座ってるんだから」
中にはそういう人もいるだろう。それはそれで気軽にできていいと思う。ただ、私は「形」や「表面的」ではない、何か「内面的」なものが違っていると思うのだ。いや、「精神的」にと言った方が良いかもしれない。


実際に正座をしてもらえば分かるだろう。きちんと正座をする人なら、既に体感しているかもしれないが、何か「気持ちが正される」ような、そんな凛とした気分にさえなってはこないだろうか。

思えば、ピンと正座をしながら「俺ってヤツは」とか、「もうだめだ」とか、「何にもやる気が起きないんだ」などと言っている人を、私たちは見たことがあるだろうか。少なくとも、私はお目にかかったことがない。

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例えば、こうだ。日なたで目を閉じ、静かに正座をしている老人が居たとする。目前には囲碁盤があり、若い対局者が座っている。その老人には深いシワがあり、どことなく古風な威厳があった。一体、今まで何人の人と囲碁で勝負をしてきたのだろうか。いくつもの人と出会い、勝負をし、別れてゆく……そんな浪漫さえ秘めている。
「先生、次の手をお願いします」
若い対局者が言った。老人は、更に正座を正し、腕を組んだ。そして、
「あ、あぁー、ムリムリ。ダメだね。もう手が詰まっちゃったよ、うん。どう考えてみても、何かこうね、4手先のそこんところで何かこう、ダメなんだろうなぁ。ムリムリ、やめよう。負けるの怖いから」

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なんだこれは。恐らくこのまま続けると、この老人は奇声と共に盤をひっくり返すだろう。しかし、こんな老人が居てなるものか。別に居てもいい、いいのだが、何か違和感が沸いてはこないだろうか。正座をし、姿勢を正しピンとした姿で、弱音を吐く。そんな状況を、私は見たことが無い。万が一、前記の対局でその老人が負けるとしても、
「負けました」
と、潔く負けを認めるのであれば全く違和感は無い。むしろ、この人はベテランなのに負けも素直に認めるのか、とかなんとか更に高感度が上がることだろう。

余談だが、私の場合、正座をしていて自信が無くなった時は、自然と背中が丸くなっていることが多い。この場合の例でも、背中が曲がっていれば何となく状況的に大丈夫な気もする。何が大丈夫なのかよく分からないが。


以上を考えてみると、これはそもそもどういうことなのか。もしかすると、正座には血行や背骨の関係以上に何かあるのかもしれない。言うなれば、正座とは姿勢をただ正した形ではなく、その姿勢をすることによって精神が正されることなのかもしれない。

今まで私は、正座を「正しい座り方」「正しく座る」のように思っていた。しかし、そうではなく、「座って(精神を)正す」ことなのだろうか。だとしたら、全ては気持ちしだいとはよく言ったものだ。気持ちから正すことで姿勢という形で表面に表れるのだろうか。精神統一。邪気を祓い、正しきを取り入れる。なぁんて事を言ってみる。


私は、まだまだ正座について知らないことが多い。幼い頃より、武道や礼法を通して正座を見てきたのだが、いざ「正座」そのものを考えてみると、全く未知な部分ばかりである。

いやしかし、そう考えてみると武道なら武道、礼法なら礼法で、また正座の感じ取り方や使い方などの世界観も変わってくるのだろう。聞いてみたいものだ。彼等は一体どんな感じ取り方をしているのか、想いを馳せれば馳せるほど私は知りたくてたまらなくなってきた。

さぁ、前を向き、目を閉じ、心を無にして正座をしてみよう。何か新たな能力が開花されるかもしれない。エスパーのような!!!(それはそれで凄いが)